EGAKU受講者
インタビュー

平出 哲也 さん
大手製造メーカー 研究開発

「描くことの可能性」への期待

以前、「脳の右側で描け」という絵の描き方を書いた本を読んで、絵を使って自分の中を探っていくことができるんだろうなとずっと思っていました。描くことが自分につながるのは何があるんだろう、そういうのに触れられたらいいなと。
そういう「絵を描くことの可能性」みたいなものに期待して、トツキトオカを始めました。

初めて参加したときは、それまで4年位やってきていた即興劇と同じプロセスを辿っていると感じました。即興劇は言葉と体を使っているけど、絵に落とすということも頭としては同じ使い方をしていると感じました。描いていて、何か歓びみたいなものが多かったような気がしましたね。

描くことは「一人即興劇」であり、残るのがすごくいい。

僕はずっと活動を続けている即興劇に大きな影響を受けてきました。即興劇は一人でやるものではなくて、誰かのアイディアが降ってきたところに自分を乗っけていくという部分があります。それに対してEGAKUは自分一人の世界です。でもそういう意味で言うと、描いた絵を回してみた時とか、思い通りうまく描けない時に、即興劇の中で言う「他の人の関与によって自分の中で新しいものが生まれていく感覚」に近いものがあると感じます。絵を描く時も、自分の想像にはなかった何かが見える瞬間があるので、一人即興劇みたいなものかもしれないですね。

その上で、絵は「残る」というのが、劇とのすごく大きな違いですね。描き終わった時と、後で落ち着いて絵をみる時とでは、自分の感じ方が違っている。やりきったという感じが「残る」というのはすごくいい。さらに描いているときに感じたことも絵の中には残っていますよね。

考えたことをどれだけ表現できるかという欲が出る。

描き続けていくと、初めの作品と比べてこんなに変わっていくんだという驚きがありました。目に見えて変化を感じるんですよね。
全体で言うと、なんだか表現欲みたいなものがどんどんでてきているなというのは思っていました。

最初の回はどちらかというとテーマに向き合って考えることのウェイトが大きかったような気がするんですけど、回数が進むにつれて、その考えたことをどれだけ表現できるかということにシフトしていった気がしますね。
自分の心の動きの大きさや熱みたいなものがいかに表現できているかというのを気にするようになっていきました。即興劇はお話をつくるので、フローを全部みせるみたいな感じなんです。でも、EGAKUは写真のように切り取って、どれだけそこに詰め込めるかっていう感じですよね。なので視点がちょっと違うと思っています。即興劇は引いて見ている感じ。EGAKUは作品にぎゅっと凝縮される感じですね。

表現したものを他人がどう感じるかで葛藤も

自分でこういう風にしたいと描いたものと、鑑賞でもらうコメントとのギャップがあって「出せてないんだな。」と感じる時期もありました。トツキトオカ3ヶ月目に描いたこの「鼓動」という作品は、鑑賞者がプラスな気分になるよりは暗い気分になるように描こうと思っていたのに、「きれい」とか言われると、そういう負の方を出し切れてないんだなとすごく思いましたね。テーマには関係なく、自分の中の負の部分というか、思っているものをもっと外に出したいという意識はずっとありました。
描いたものと、それを見た人のコメントとのギャップを埋めたい、自分が出したいものをうまく表現できるようにというのを意識しはじめました。

鑑賞者の目を気にしはじめてから、イメージしたものを忠実に描きたいっていう風になっていったんですが、3回位描いてみて諦めたんですね。この考え方はやっぱだめなんだと。
自分の中に生まれたイメージをゴールにするんじゃなくてスタートにするのじゃないと先は描けないんだと思いました。最初の頃はそうやって描いていたはずなので、途中人の目を気にして行き詰まったことで、最初のイメージがスタートだと再度意識できたのは大きかったですね。

そのあたりから、描く中で後半の集中力をどう維持するかという問題になってきました。スタートからゴールに向かっているわけだから、そこをいかに研ぎ澄ますかということが重要になっていたんです。

描いている中で出てきたものを大事に描きたい。

例えば5回目の「傷口」は、良い意味で自分が最初に思ったものを描き切ったんですけど、終わってみると何か物足りなかった。描く中で自分が思っていたことを全部出せただろうかというのがすごく残ってしまいました。描いている途中に自分が感じたことを結構無駄にしている感じがしました。

そこからは、創作の途中で一度立ち止まって改めて描いてみるっていう時間を作ろうとしました。
例えば最初にこうやろうというのはとりあえず描いて、じゃあそこからどうしようと、そしてまた描いて、というプロセスになっていきました。振り返ると、こんな風に2か月に一回ぐらいのペースで気づいて創作の方法を変えていってるんですよね。

トツキトオカの10ヶ月を修了し、プラス1回描いていますが、その感覚は続いています。描いている中で出てきたものを描きたいですね。そっちが自分の知らないところだと思うので。

自分の中の言葉を出したり、行動したりすることへの躊躇が減った

トツキトオカを終えて、最近自分の変化みたいなものを感じてはいるんですが、それは描いた事の結果なのかというと、単純には答えられない。でもあえて言うとすると、自分の中にある言葉とかを出す躊躇は減ったのかなと。言葉じゃなくても行動でもですね。

同時にそうやって自分が動いたり、何か言葉を発することで周りに与える影響みたいなのを自分で冷静に見られるようになったと思います。それまではそこに意識がいかなかった。自分が絵を描いて、それに対して他の参加者からリアクションがあるっていうことで、自分が出した行動の結果をちゃんと見られるようになったかなと思います。

例えば他者の作品に対して出した鑑賞コメントに対して「えぐられる鑑賞コメントが来た」と他の人に言われたことがあって、以前はたまたま出ただけのコメントだと思っていたと思うのですが、自分の中から起きたことなんだと受け止められるようになりました。自己肯定感というより、自己認知ですかね。自己肯定はまだ自分にとっては大きなテーマですね。

発見のある「場」をつくりたい

トツキトオカでグループ内でのファシリテーションを経験して、場に対する願いみたいなものが自分の中で強いというのは、最近すごく分かってきました。
「気持ち良く」とか、「発見のある場があったらいいな」と自分が強く思っているんです。
その流れもあって、ファシリテーションの勉強を新たに始めました。自分はまだ場をつくれないし、つくれてもこのプログラムが良いのか、合ってるかどうかがわらかない。それを一緒に考えてくれる人がいなかったので、そういう人たちに出会いに行ったという感じです。

これからのキャリアの方向性でいうと、EGAKUみたいな形で、周りの人の内面とつながったものが外に出てくる場をつくることに関われたらいいなというのはあります。ファシリテーションするのか、プログラムをつくるのか、コーディネートするのかは、まだわかりませんけれど。
トツキトオカではそれを確かめられた気がしています。表現するのはその人にとって大事なことで、表現することで「自分のことを知る」っていうのができて、「あっ」て気づいてもらえるような場所をつくりたいと思うようになりました。

「その人そのもの」を扱うのがアート

ここにきて、すごく良かったのは、アートが自分のものなんだっていうか、他の人の絵であったとしても自分の体験として鑑賞できる実感を得られたことですかね。
本当にその人そのものを扱うのがアートなんだという感覚を得られたのがすごく大きかった。
だからアートは高価なものとして見ている発言を聞いたりすると、それは違うよと感じるようになりました。アートは超個人的なものであり、自分のものにしていいんだから。
「自分なんて…」という人に対しては、アートはそういう定規で図るものではそもそもないと言いたいですね。

トツキトオカって、各回ごとにテーマがあるのがすごくよかったんです。それで全テーマが終わって、今絵を描く意味もなんとなくわかってきたので、今度は自分で扱いたいテーマを描くことをやってみたいですね。で、そうなってから描いた絵というのはどうなるのかがすごく楽しみです。
描く意味が自分の中でできたので、これからはより能動的に描きたい。そう思っています。

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